陣ヶ岡の歴史を語る時、他を差し置いても語らねばならない逸話がある。奥州藤原氏の譜代の臣・由利八郎維衡(これひら)の逸話である。以下は『吾妻鏡』に書かれたくだりを現代語訳で述べたものであるが、陣ヶ岡の歴史を語る語り部(観光ガイド)であれば、必ず語る件(くだり)であるので、あえて紹介する。
奥州合戦さなかの文治5年9月7日のことである。由利八郎が宇佐美実政によって生け捕られ、陣ヶ岡に引かれてきた。その時、誰が由利八郎を生け捕ったかについて天野則景と口論になった。梶原景時が八郎に尋問すると、八郎は景時の尋問の態度が無礼であると言って憤り答えなかった。
頼朝は変わって畠山重忠に尋問を命じた。重忠は、敷皮を取って八郎にこれを座らせ、丁寧に尋問した。
「戦場で囚われるのは恥ではない。二品殿(頼朝)も、囚人(めしゅうど)として六波羅に送られ伊豆にながされた。しかし、佳運あって天下を取ることができた。由利殿は、今は捕らわれの身であるが、いつまでも不運に甘んじるべきではない。由利殿は、かねてからその名が聞こえていた武将であるから、勇士らが勲功にしようとお互い口論している。由利殿を生け捕った者の鎧・馬の色をお聞きしたい」と問うた。
由利八郎は、重忠の礼をわきまえた尋ね方に感服し、
「黒糸威(おどし)の鎧を着け、鹿毛の馬に乗った者がそれがしを馬から引き落とした」と答えた。
その者は宇佐美実政と判明した。重忠の報告を聞いた頼朝は、八郎に面会し、
「汝の主人泰衡は、奥州で17万騎を率いて威勢を振るったが、このたびの戦いでは、わずか二十日の内に一族みな滅んだ。聞いていたほどの人物ではなかった」と言った。
これに対して八郎は、
「力のある壮士を所々の要害に分散して配置したので、泰衡公のそばには、わずかの郎従しか従っていなかったのが敗因であった。しかし、左馬頭殿(義朝)は、東海道15ヶ国を支配していながら、平治の乱では一日も支えきれずに没落し、長田忠敬によってたやすく誅されてしまった。それに比べたると泰衡公は、わずか2ヶ国の棟梁でも、数十日の間(あなたを)悩ませたではないか。何をもって(泰衡を)不覚と言うのか」と答えた。
頼朝は、返す言葉もなかった。由利八郎は畠山重忠に預けられ、芳情の施しを受け、本領を安堵された。
※『吾妻鏡』では、由利八郎は維衡と記されている。尋問の際の応答に恐れ入った頼朝は、由利八郎に対し、深甚なる敬意をもって待遇を処されたという。尚、大河兼任の乱のくだりでは、加担を拒んで戦いとなり、戦死した武将に由利中八維平の名が記されている。同一人物かどうかはっきりしないが、子の維久は、和田合戦に連座したとして、執権北条氏から所領を没収されている。
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