陣ヶ岡の標高は136m。境内地は現在20ヘクタールだが、藩政時代までは100ヘクタールあったという。明治になって土地が徐々に売却され、現在、その土地は果樹園を中心とした畑になっている。
『吾妻鏡』には、頼朝が28万4千騎を引き連れて陣を構え、兵馬を休ませたとある。馬と荷物を含め、それだけの大軍の陣にしては狭すぎると感じるのは、面積が5分の1になった為の先入観なのだろうか。伊藤祐清著『祐清私記』(明治33年刊)の「高水寺回禄縁起の事」には「近辺はさしも広き野原なれども、数千騎の軍勢むらがりければ、尺寸の余地なかりけり」と記されている。この記述を信じるなら、28万4千騎ではなく、数千騎となる。
むしろ、この数字の方が、真実味があるように思える。
この史跡は、昭和25年頃から、手入れする人が次第に減り、草木が伸び放題となり、手が付けられないほど荒れていったという。史跡価値としての存在も、一時期危機的状況にあった。
昭和50年頃になって、遺跡の損壊が危惧され、この陣ヶ岡を管理する須川勘十郎氏(1924―2014)が中心となって陣ヶ岡愛護会が結成され、地域住民総手の整備・保存活動が行われ、現在のように復活した。
日の輪形・月の輪形も、繁茂する草に隠されて、どこにあるかも分からなかった状態だったが、すっかり刈り取られ見事に復元された。日の輪形は土盛りが直径4mあり、4mはなれて月の輪形がある。コンパスで描いたように正確な三日月形で、輪の中心を結ぶと磁石がピッタリと南北を指す。(写真参照)
計算されて造営したものであることが確
認された。池の周囲が306mであったこと
も確認された。
参道には、秀衡が当時植えたと伝えられ
るアジサイ、2千株を植栽し、亡くなった武
者の魂を慰めている。この植えた数は、頼
朝が鎌倉・鶴岡八幡宮に植えた株数にな
ぞらえ、同じ数になっている。
陣ヶ岡歴史公園は、春は桜、夏は紫陽花、秋は紅葉が詩情を誘い、観光を楽しむ人々の目を楽しませている。
陣ヶ岡愛護会は、故・須川勘十郎氏から引き継いだ立花靖行氏が会長となり、泰衡首洗い井戸の保存活動を始め、標柱や案内板、史跡解説板の設置、石碑・石塔・物見櫓(やぐら)の管理清掃、秀衡参道の整備、神社林とアジサイの手入れなどが行われている。泰衡首洗いの井戸は昭和20年代頃までは「首洗いの清水(すず)」と呼ばれていたという。
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