泰衡首洗い井戸は、蜂神社から北東に、直線で250mの所にある。直径2mほどの掘りというべきもので、今は水が湧いていない。水がなくならないように、随時つぎ足されているという。
泰衡は、秋田・贄柵で譜代の臣・河田次郎に討たれ、首実検を受ける前に、この井戸に運ばれ、首を洗ったという由縁である。
この位置が、蜂神社の北東であるから鬼門の方向に当たる。首が晒されたのは蜂神社境内ではなく、この場所だったのではないかと考えられている。
鬼門は怨霊の祟り封じの方向であり、奥州王国の第四代王である泰衡の怨霊を封じるのに、最も有効な位置だったからである。そして、晒すからには、住民の目に触れる所でなくてはならない。穢れの思想が徹底されていた時代だから、より多くの人の行き交う場所を選定したはずだ。だから、神社境内に晒すわけはないのである。
ただし、泰衡の首をこの井戸で洗ったというのは言い伝えであり、古記録はない。本当にこの井戸で首を洗ったのであろうか。
恩賞を授かろうとする際に首実検にかける首は、当時の習慣から、首を討った直後に血が洗い流され、髻(もとどり)を丁字油で整え、きれいに化粧することになっている。もし傷があれば、白粉を塗って隠すのである。少しの傷も恩賞の大小を左右するからである。また、化粧を施すのは婦女子の仕事であった。
奥州の王たる人物の首を、洗わずに(秋田から)陣ヶ岡まで運んでくるとは思われない。化粧をしていない首は、恩賞の対象にならないからだ。化粧しないで来たとなれば、主君を軽んじたことになろう。否、泰衡の首ではなく、にせ首だった可能性さえある。
逆に、きちんと化粧してきた首であるなら、この井戸で首を洗ったりしたら化粧が落ちてしまう。洗うはずはないのである。果たして、本当に洗ったのであろうか。言い伝えが正しければ、その首は泰衡の首ではないということになるのではないか。ここに大きな謎が残るのであるが、この謎を解く鍵は、泰衡が贄柵で討たれた状況を考察すれば自ずと回答が導き出されるのであるが、紙面に限りがあるので、ここでは述べない。
首を持参した河田次郎は、恩賞に授かるどころか、主君を裏切った罪は重いとして、頼朝から斬首刑を言い渡され、小山朝光によって、その日の内に処刑されている。
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