義経夢の会

源義経が過ごし終焉を迎えたとされる『平泉』。 しかし、義経は生き抜き北の大地へと落ち延びたのではないか?義経北行伝説を追求する

山崎純醒先生ブログ 義経北行伝説

山崎先生30:泰衡首洗い井戸

2018/1/18

泰衡首洗い井戸は、蜂神社から北東に、直線で250mの所にある。直径2mほどの掘りというべきもので、今は水が湧いていない。水がなくならないように、随時つぎ足されているという。 泰衡は、秋田・贄柵で譜代の臣・河田次郎に討たれ、首実検を受ける前に、この井戸に運ばれ、首を洗ったという由縁である。 この位置が、蜂神社の北東であるから鬼門の方向に当たる。首が晒されたのは蜂神社境内ではなく、この場所だったのではないかと考えられている。 鬼門は怨霊の祟り封じの方向であり、奥州王国の第四代王である泰衡の怨霊を封じるのに、最 ...

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山崎先生31:陣ヶ岡の環境整備

2018/1/18

陣ヶ岡の標高は136m。境内地は現在20ヘクタールだが、藩政時代までは100ヘクタールあったという。明治になって土地が徐々に売却され、現在、その土地は果樹園を中心とした畑になっている。 『吾妻鏡』には、頼朝が28万4千騎を引き連れて陣を構え、兵馬を休ませたとある。馬と荷物を含め、それだけの大軍の陣にしては狭すぎると感じるのは、面積が5分の1になった為の先入観なのだろうか。伊藤祐清著『祐清私記』(明治33年刊)の「高水寺回禄縁起の事」には「近辺はさしも広き野原なれども、数千騎の軍勢むらがりければ、尺寸の余地 ...

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山崎先生32:蜂神社の歴史

2018/1/18

昔、陣ヶ岡には幾つかの堂宇が建っていたという。みな、焼失して今は無い。蜂神社は源義家が建てた神社であるが、藤原氏滅亡後の建久3(1192)年5月に反乱があり、太田、中島と延焼し、陣ヶ岡にまで到達して焼失したという。その後、斯波家長によって再建され保護されたという。 しかしまた寛文4(1664)年9月に童子が枯れ草に付けた火が延焼し、大火となって陣ヶ岡一帯を焼き、多くの民家と蜂神社が焼失した。この時、社宝であった神鏡4個は、搬出かなわず焼失している。安政年間(1854―1860)に、地域の人々がお金を出し合 ...

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山崎先生33:陣ヶ岡の不思議な位置関係

2018/1/18

陣ヶ岡の場所を地図で見てみると、周囲には小山すらない全くの平地に位置している。もし太古に自然に隆起してできた地形であるなら、周囲にも陣ヶ岡と同じ丘陵があってもよさそうなものだが、それがない。広い平野に、陣ヶ岡は完全に孤立して佇んでいる。 そのこともあって、陣ヶ岡は人工的に造られた丘陵だったのではないかと昔から云われてきたのであるが、地図で見ると、それを裏付けるように、ある規則性をもって陣ヶ岡が存在していることが分かるのである。 陣ヶ岡の周囲には三つの「館山」があり、その館山を直線で結ぶと、正確な二等辺三角 ...

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山崎先生34:王子森古墳

2018/1/18

これは言い伝えであるのだが、日本武尊がこの地に宿営した 際、随行していた妃(ミヤズヒメ 美夜受比売)が、陣ヶ岡で出産 したという。しかし、長旅の疲れもあって体力衰え、肥立ちが悪か ったために、皇子は3日目に薨去(こうきょ)したという。 日本武 尊は、我が子の死を嘆き悲しみ、 墳墓を造営して埋葬し、その 霊を弔ったという言い伝えである。 蜂神社の裏手に「王子森古墳」の石碑が建っているのは、そ ういう由縁で建てられたものである。 この伝説がある故に、 陣 ヶ岡はかって古墳だったのではないかとささやかれる理由が ...

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山崎先生35:由利八郎

2018/1/18

陣ヶ岡の歴史を語る時、他を差し置いても語らねばならない逸話がある。奥州藤原氏の譜代の臣・由利八郎維衡(これひら)の逸話である。以下は『吾妻鏡』に書かれたくだりを現代語訳で述べたものであるが、陣ヶ岡の歴史を語る語り部(観光ガイド)であれば、必ず語る件(くだり)であるので、あえて紹介する。 奥州合戦さなかの文治5年9月7日のことである。由利八郎が宇佐美実政によって生け捕られ、陣ヶ岡に引かれてきた。その時、誰が由利八郎を生け捕ったかについて天野則景と口論になった。梶原景時が八郎に尋問すると、八郎は景時の尋問の態 ...

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山崎先生27:陣ケ岡の歴史

2018/1/17

26 陣ケ岡の歴史 陣ヶ岡は、蜂神社境内の高台が陣ヶ岡跡とされる。 様々な歴史の舞台になったが故に、今は陣ヶ岡歴史公園として親しまれている。 入口の鳥居の左側に、標看板と路標が設けられ、路標に「陣ヶ岡陣営跡」と書かれている。 参道は緩やかな勾配で、車一台が通れるほどの細い上り坂である。 左右の老松が悄然かつ幽寂として立ち並び、人を奥へといざなっている。 この陣ヶ岡の縁起は、神代・古代の時代まで遡る。縄文・弥生時代は竪穴式住居の集落地だったところで、 土偶も多数出土している。 この陣ヶ岡を舞台に、歴史上の名 ...

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山崎先生28:蜂神社の縁起

2018/1/17

陣ヶ岡歴史公園入口の大きな鳥居をくぐり、約200mの参道を歩くともう一つの鳥居がある。それをくぐって正面に鎮座しているのが蜂神社である。左右には、いかにも古い歴史を感じる狛犬が守っている。 蜂神社のご祭神は、日本武尊、足仲彦命(たらしなかつひこのみこと、第14代仲哀天皇)誉田別命(ほむたわけのみこと、第15代応神天皇、八幡神)の三神で、いずれも戦勝の神として祀られている。三神は直系の父子三代である。(※仲哀天皇と応神天皇は親子ではないとする説有り。)蜂神社の「蜂」の淵源は、奈良県の春日大社にある「蜂の宮」 ...

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山崎先生29:日の輪形・月の輪形

2018/1/17

蜂神社境内の西側100mほど下ったところに、県の重要無形文化財に指定されている「日の輪形・月の輪形」の史跡が今もしっかりと形を残している。 この由来は、康平5年の前九年合戦の時、源頼義・義家父子が、安倍貞任追討の為、三万三千の兵を率い、この陣ヶ岡に布陣した時に遡る。 兵馬の飲料を得るため、陣ヶ岡に池を掘って湧き出る水を兵馬に与えた。その池に9月15日、源氏の旗印である日月(太陽と三日月)が突如顕われ、燦然たる光を放ったという。 これを見た兵士たちの士気は大いに鼓舞され、将軍頼義も「勝利の吉兆なり」と喜び、 ...

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山崎先生25:樋爪五郎季衡

2018/1/16

弟・五郎季衡(すえひら)は、当時、紫波町片寄新田に住んでいたが、館の敷地内に造営された池で夏場によく泳いでいたというゆかりから、いつの時代からか「五郎沼」の愛称で呼ばれるようになったのだという。 また、祭事も執り行ったと思われ、沼に舟を浮かべ、雅楽も奏でたのではないかと思われる。沼の底から多数のかわらけが出ていることから、舟の上で酒も飲んだことが窺える。 今は「沼」の呼称にされてしまったが、かつてこの五郎沼は、今の4倍ほどの面積があったことが学術調査で明らかになっている。平泉・毛越寺の大泉ヶ池に匹敵する面 ...

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