義経北行伝説
源義経が過ごし、また終焉を迎えたとされる地『平泉』。
実は、義経は生きていて、北の大地へと落ち延びていた…。
その歴史を証明すべく、研究を重ね執筆活動と講演会に奔走している山崎純星先生を支える、『義経夢の会』事務局次長の“良子御前”がご案内します。
源義経が過ごし、また終焉を迎えたとされる地『平泉』。
実は、義経は生きていて、北の大地へと落ち延びていた…。
その歴史を証明すべく、研究を重ね執筆活動と講演会に奔走している山崎純星先生を支える、『義経夢の会』事務局次長の“良子御前”がご案内します。
2018/1/18
2018/1/18
陣ヶ岡の標高は136m。境内地は現在20ヘクタールだが、藩政時代までは100ヘクタールあったという。明治になって土地が徐々に売却され、現在、その土地は果樹園を中心とした畑になっている。 『吾妻鏡』には ...
2018/1/18
昔、陣ヶ岡には幾つかの堂宇が建っていたという。みな、焼失して今は無い。蜂神社は源義家が建てた神社であるが、藤原氏滅亡後の建久3(1192)年5月に反乱があり、太田、中島と延焼し、陣ヶ岡にまで到達して焼 ...
2018/1/18
陣ヶ岡の場所を地図で見てみると、周囲には小山すらない全くの平地に位置している。もし太古に自然に隆起してできた地形であるなら、周囲にも陣ヶ岡と同じ丘陵があってもよさそうなものだが、それがない。広い平野に ...
2018/1/18
これは言い伝えであるのだが、日本武尊がこの地に宿営した 際、随行していた妃(ミヤズヒメ 美夜受比売)が、陣ヶ岡で出産 したという。しかし、長旅の疲れもあって体力衰え、肥立ちが悪か ったために、皇子は3 ...
2018/1/18
陣ヶ岡の歴史を語る時、他を差し置いても語らねばならない逸話がある。奥州藤原氏の譜代の臣・由利八郎維衡(これひら)の逸話である。以下は『吾妻鏡』に書かれたくだりを現代語訳で述べたものであるが、陣ヶ岡の歴 ...
2018/1/17
26 陣ケ岡の歴史 陣ヶ岡は、蜂神社境内の高台が陣ヶ岡跡とされる。 様々な歴史の舞台になったが故に、今は陣ヶ岡歴史公園として親しまれている。 入口の鳥居の左側に、標看板と路標が設けられ、路標に「陣ヶ岡 ...
2018/1/17
陣ヶ岡歴史公園入口の大きな鳥居をくぐり、約200mの参道を歩くともう一つの鳥居がある。それをくぐって正面に鎮座しているのが蜂神社である。左右には、いかにも古い歴史を感じる狛犬が守っている。 蜂神社のご ...
2018/1/17
蜂神社境内の西側100mほど下ったところに、県の重要無形文化財に指定されている「日の輪形・月の輪形」の史跡が今もしっかりと形を残している。 この由来は、康平5年の前九年合戦の時、源頼義・義家父子が、安 ...
2018/1/16
弟・五郎季衡(すえひら)は、当時、紫波町片寄新田に住んでいたが、館の敷地内に造営された池で夏場によく泳いでいたというゆかりから、いつの時代からか「五郎沼」の愛称で呼ばれるようになったのだという。 また ...
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