山崎純醒先生ブログ 義経北行伝説

山崎先生7:白山神社縁起

『義経夢の会』事務局次長の良子(ながこ)です! 『義経夢の会』お頭の山崎純醒先生の研究レポートよりご紹介いたします‼

時は平安・延暦22(803)年、坂上田村麻呂(坂上田村麻呂系図参照)が、蝦夷を鎮めるために、赤沢・音高山(260m)の頂きに白山神社を勧請して、イザナミ尊とその妹神の菊理媛尊(別名ココリヒメ、白山比咩)を祀ったと古記録にある。岩手県内で最古の神社となっています。(角川日本地名大辞典)

それから約248年後、亘理地方(今の宮城県)の権守(ごんのかみ)であった藤原経清(系図1―②参照)が、志波三ッ瀧柵(今の紫波町南日詰あたり)の領主となった時、領内の音高山に霊気を感じ、寂れてしまった白山神社の再建を決意しました。

安倍頼良父子の寄付造営もあって、永承6(1051)年5月7日に造営、落成した伝えられています。

落成を祝って経清は「風吹かば/音高山の/榊葉も/色や増すらむ/神の御稜威に」と詠じています。 風吹かば~の短歌は、この故事にならい、この神社のお祭りが終わったあとは、今も必ず歌われています。

その後、白山神社別当家初代、遠山師重が、前九年合戦の戦火を逃れる為、白山神社のご神体を背負いながら、経清の母を赤沢に連れてきたと由緒書きにはあります。

その後、経清の子である藤原清衡は、赤沢の地で誕生した縁(よしみ)で、嘉保元(1094)年に、阿弥陀堂と華蔵寺を建立しました。 清衡の孫である藤原秀衡が、毘沙門堂と薬師堂を建立し、火事で焼失した白山神社本殿を再建したと由緒書きには記されています。

室町時代には、奥州管領に任じられた斯波氏初代、斯波家長が神社を修繕、神領の寄進をし、手厚く保護しました。

幕政時代には、延享年間(1744ー1748年)に南部利視(としみ)から社領として30石を与えられ、大切にされたようです。

昭和の時代、社殿のある山頂の土の中から、梵字で刻まれた石碑がいくつも見つかり、かつて繁栄を誇った栄華を偲ばせています。 かつては経塚も、あったともいわれています。

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