26 陣ケ岡の歴史
陣ヶ岡は、蜂神社境内の高台が陣ヶ岡跡とされる。
様々な歴史の舞台になったが故に、今は陣ヶ岡歴史公園として親しまれている。
入口の鳥居の左側に、標看板と路標が設けられ、路標に「陣ヶ岡陣営跡」と書かれている。 参道は緩やかな勾配で、車一台が通れるほどの細い上り坂である。
左右の老松が悄然かつ幽寂として立ち並び、人を奥へといざなっている。
この陣ヶ岡の縁起は、神代・古代の時代まで遡る。縄文・弥生時代は竪穴式住居の集落地だったところで、
土偶も多数出土している。
この陣ヶ岡を舞台に、歴史上の名だたる武たちが
ここを本陣として陣を構えた名勝地なのである。
もっとも古い縁起は、景行帝43(113)年、日本武尊が蝦夷征討のため、この陣ヶ岡に宿営したとする伝説が残っている。以下―
・斉明帝5(659)年、安倍比羅夫が宿営。
・天応元(781)年、道嶋宿禰が宿営。
・延暦20(801)年、坂上田村麻呂がアテルイ征討の際、陣を敷く。
・天喜2(1054)年、安倍頼時・貞任父子が陣ヶ岡を遊楽地として造成。
・康平5(1062)年8月、源頼義・義家父子が秘伝の陣法(八門遁甲術)を習得して改造営し、前九年合戦の際にこの地を本陣とする。
・治承・寿永年間(1177―1184)に藤原秀衡が、陣ヶ岡を奥羽一万寺の修道浄化の聖地として造成。
・文治5(1189)年9月4日、奥州合戦のさなか、源頼朝が泰衡追討の為の本陣としてここに28万4千騎を宿営させた(ことになっている)。
※『吾妻鏡』には「面々に白旗を打ち立てて、各々黄間に寄せ置く。秋の尾花は色をまじえ、晩頭の月、勢いを添ふ…云々」と名文を記している。
その二日後の9月6日、河田次郎によって討ち取られた(とされる)泰衡の首が陣ヶ岡に届けられ、頼朝自ら首実検に立ち合う。
※河田次郎は秋田・贄柵(今の大館市二井田?)の領主で、泰衡の譜代の忠臣(初代清衡から代々家臣として仕えた家柄のこと)であったが、9月3日夜 半、贄柵の寝所に押し入り、裏切って誅殺した(ことになっている)。首は頼朝家臣・横山小権守時広とその郎従広綱によって八寸釘で眉間を打ち抜かれ、9月10日まで晒し首となった後、中尊寺経蔵別当・心蓮大法師が引き取っている。頼朝は、戦勝の鬨(かちどき)を挙げて厨川柵に向かった。
・宝治2(1248)年には斯波家氏が八幡宮を再建。
・延文年間(1356‐1361)、斯波家長が陣ヶ岡に「萬亀山(まんきさん)千鶴寺(せんがくじ)」を建立、本尊として十一面観音など数体を安置した。(昔に焼失。現在は標だけが立っている)
・天正16(1588)年、南部氏26代信直公が、斯波氏居城の高水寺城攻略の為、ここを本陣とする。
・天正19(1591)年、豊臣の将・蒲生氏郷が、九戸政実の乱の討伐の為、この地に陣を構える。
・江戸時代には、百姓一揆が起こる度に集会場となっている。
これほどまでに、この陣ヶ岡は、歴史の重要拠点として利用された訳であるが、このような事例は全国的にみても、他に例を見ない。
何故ゆえ、陣ヶ岡に陣を敷くのか。それは、この陣ヶ岡が、先に述べた八門遁甲の秘法によって造営された岡だからである。この造営は、安倍比羅夫が造営したとも、坂上田村麻呂が造営したともいわれ、その名残りは周囲の山々に造営の跡が今も残っている。
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