山崎純醒先生ブログ 義経北行伝説

山崎先生26:比爪館跡の遺構とその規模

比爪館跡の遺構とその規模
比爪館跡は、居館と思われる辺りから、掘立柱建物群、井戸跡、板塀跡、館の周囲を囲む1㎞に及ぶ大溝跡が見つかっている。このことからしても、ここがただの居館ではなく、かつて広い柵を巡らした政庁跡であり、要塞跡だったことが窺える。


遺跡からは、手づくね、かわらけが大量に出土し、それらを作った轆轤(ろくろ)も出土しており、近くからは、土を焼いた釜の跡も見つかっている。その規模も平泉と同規模のものであったことが分かっている。
また、平泉文化と共通する中国製の青磁や白磁の破片、常滑焼や渥美焼の壺の破片、金箔の押し飾り金具なども出土している。さらに、曲げ物、漆皿、下駄などの木製品も出土している。水沼産の陶器は平泉と比爪館跡しか出土しておらず、平泉と樋爪氏の極めて密接な関係が、出土品でも窺い知ることができる。
平泉と同等の文化が花開いた場所であるなら、平泉同様、格子状の道路や軒を並べた武家屋敷跡などの都市構造もあったことになるが、今後の調査で、徐々にその全貌があきらになるだろうと期待されている。
紫波には金山が多数あり、その黄金採集量は平泉を上回っていたのではないかとさえ言われている。となれば、中尊寺金色堂と同等の金堂があったとしても不思議ではない。だが、奥州合戦のさなかに焼失してしまったか、金箔を剥がしたあとに燃やして去ったのではないか、と想像だけはしてみたい。
昭和25年の奥州藤原氏三代学術調査の際、秀衡の棺の中に、首桶が納まっており、その首桶に泰衡の首とされる首のミイラが納められていた。この首が本当に泰衡のものかどうかという話は、ここでは述べない。その首桶の中に80粒ほどの蓮の種が入っていたのであるが、その種を植えたところ、800年の眠りから覚め、見事な花を咲かせたことはつとに有名な話である。その古代蓮は、今も中尊寺と五郎沼に咲き誇っているのだが、中尊寺の蓮は、800年前の五郎沼の蓮の種であることを認識している人は少ない。

←五郎沼の蓮
そのことを知るだけでも、首桶に入れられた人物の御霊(みたま)を慰めることができるのではないだろうか。
五郎沼がまだ広い面積をもっていた頃、この池を遊覧した菅江真澄は、「俊衡が大勢の人を使役して築いた堤」と日記に記している。これだけの規模を造営するだけの財力と権力が俊衡にあったことに、菅江真澄は驚嘆したのではないだろうか。この池には、毎年冬、たくさんの白鳥が飛来する。今はすっかり有名になり、毎年冬になると、多くの観光客がパンを片手に訪れるようになった。

-山崎純醒先生ブログ, 義経北行伝説

© 2024 私の国