弟・五郎季衡(すえひら)は、当時、紫波町片寄新田に住んでいたが、館の敷地内に造営された池で夏場によく泳いでいたというゆかりから、いつの時代からか「五郎沼」の愛称で呼ばれるようになったのだという。
また、祭事も執り行ったと思われ、沼に舟を浮かべ、雅楽も奏でたのではないかと思われる。沼の底から多数のかわらけが出ていることから、舟の上で酒も飲んだことが窺える。
今は「沼」の呼称にされてしまったが、かつてこの五郎沼は、今の4倍ほどの面積があったことが学術調査で明らかになっている。平泉・毛越寺の大泉ヶ池に匹敵する面積であったことになる。かつての樋爪氏の栄雅を物語る象徴的な「池」だった訳である。
この沼は、北上川に注ぐ滝名川の氾濫を防ぐ洪水調節の役割も担っていたとも伝えられる。沼には中島があって、かつての中島は今の数倍も広かったという。由緒によると、中島は、かつて観音島と呼ばれ、中島のお堂に千手観音(台座を含めた総高13センチ、像高5.5センチ、肘張り2.8センチ)が安置されていたという。千手観音は室町時代の作で、斯波氏の時代には、五郎沼より西に15間離れた所にあったが、参拝者が難儀するというので、代官に願い出て、享保元(1716)年に中島に移築したとある。
また、昭和9(1934)年、沼の土手を整地したところ、経塚が出土し、中から経文を納めた素焼きと青銅の二重経筒、魔除けの短刀が出てきたという。また、沼の底からも様々な出土品が出てきたという。
五郎季衡は、奥州合戦で降伏後、宇都宮の二荒神社職掌として配属。後に脱走した為に横死。罪が重いとして首足、処を異にし、首は上河原に、胴は今泉町に葬られたとある。(『宇都宮大明神代々奇瑞記』)
伝説によれば、五郎は故郷恋しさの余り、二荒山神社を脱走し、五里(当時の距離で3.27km)ほど逃げた所で追手に捕まり、抵抗した為にその場で討たれたという。討たれた場所は樋爪坂と呼ばれ、明治時代まで名が残っていたが、明治17(1884)年の道路改修により坂は消えてしまったという。この坂のあった場所(JR宇都宮駅の西口付近)の近くに、頼朝ゆかりの三峰神社があり、吾郎の墓と伝えられる五輪塔が安置されている。恐らくは墓碑であろう。五輪塔は墓石が二つ無くなっていて、三輪塔になっているのだが、昭和33年に宇都宮市の文化財に指定され、地元では年に3回(1月と5月と9月の各19日)にお参りしているという。
五郎の別な言い伝えでは、五郎は討たれたのではなく、大病を患ったといい、長子・経衡が看取ったという。二荒山神社の社務職は経衡が継いだと言い伝えられている。討たれて死んだのか、病死だったのか、果たしてどちらが真実なのだろうか。
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