樋爪館跡は、かつてこの地を治めていた樋爪氏の政庁跡だったとされている。「ひづめ」は「樋爪」「比爪」「肥爪」「火爪」「火詰」の五通りの表記がある。どの表記も間違いではない。紫波の地元では「樋爪」の表記をずっと用いてきたのだが、ここ数年の考古学会の表記は「比爪」の表記に統一されてきている。地元の歴史研究会である、ひづめ館懇話会(会長高橋敬明)の会報(平成29年8月20日号で第74号)の題字は、この五通りの表記があるゆえに、漢字表記にせず『ひづめだて』となっている。
尚、館の表記は比爪でも、領主の表記は「樋爪氏」である。奥州藤原氏の一族である樋爪氏(系図4―①参照)が、この地方の砂金を支配する為に建てた居館が比爪館である。
樋爪氏初代は奥州藤原氏初代清衡の子である清綱で、泉亘十郎を名乗った。清綱の代に赴任して館を建てたとされる。清綱には六人の子がいたが、子の太郎俊衡が奥州合戦に参戦する為に家臣の良元に館を任せ平泉に馳せ参じたという。
比爪館は「ひづめのたち」と呼称する。「たて」ではない。奥州領域で「たち」と呼称するのは「高館」「衣川館」「比爪館」の三つしかない。それだけに平泉との繋がりの深さが窺い知れる。
武将が住むの屋敷は「たて」「やかた」と呼称する。「たち」は政庁としての機能を果たした場所だったが故に「たち」と呼称するのである。それ故、俊衡の家臣たちは、館の主(あるじ)を「おやかた様」ではなく「みたち」と呼んだ。
俊衡は、奥州合戦で降伏後、神職だった故に放免され、八田知家に預かりの身となった。後に本領を安堵され、日詰大荘厳寺に住した。藤原四代泰衡の子・秀安を育て、娘璋子を秀安に嫁がせている。その末裔は現在まで連綿と血脈をつなげている。秀安は安倍姓を名乗り、8代目の秀政までは安倍姓であったことが確認されているが、いつの時代からか阿部姓に改姓している。
樋爪氏が支配する地域は、昭和の時代までは紫波地方に限定した領域と考えられてきたが、平成に入って調査が進むにつれ、樋爪氏の領域が青森・十三湊以南に及び、いわゆる陸奥六郡を支配領域にしていたことが次第に分かってきたのである。従来「小平泉」と称されてきた比爪館であるが、史実は平泉に匹敵する、否、その規模を上回る可能性も否定できなくなってきているのである。現在の歴史学界の考え方は、奥州藤原氏と樋爪氏は「同格」の横の繋がりで結ばれた親族関係と定義している。
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