走湯神社は紫波町二日町御堂前の城山公園の北側に位置している。総本宮が伊豆山神社。全国に末社が153社余りあるという。『吾妻鏡』によれば、文治5(1189)年9月10日まで陣ヶ岡に陣を張っていた頼朝が、11日朝に高水寺に詣でた後、20Km北にある厨川柵に夕刻着陣したと記されている。
頼朝は、高水寺に詣でた際、この寺の鎮守としてあった神社に、自らのゆかりの深い伊豆の走湯大権現を勧請し、鏑矢(かぶらや)二本を神社のそばにあった大槻木(おおつきのき、けやきの古語)に射立てて奉納し、奥州合戦の戦勝報告をしたのが神社の由来である。
伊豆の走湯大権現は、頼朝が伊豆に流されて不遇の暮らしを強いられた際、北条政子と出逢い、逢引(あいびき)を重ねた神社である。この神社にあえて走湯権現を勧請したというからには、何かしらの縁(えにし)を感じたものと思われる。
尚、頼朝が鏑矢を放った槻木は、元禄年間(1688ー1704)の頃に焼失している。現在の木はその後に植えられた木で、元禄からであるから樹齢313年以上ということになる。中は空洞で、小さな子供なら遊べるほどの広さがある。
もともと高水寺は坂上田村麻呂が勧請した神社であるが、現在は他に移されていて、この地にはない。移された場所も特定されていない。
走湯神社境内の南側には高水寺由来の寺宝、木造十一面観音立像などが安置された収蔵庫が建てられている。
また、北側には清衡が勧請した大祖神(道祖神のこと、悪霊の厄災を防ぎ、道路を通行する人々の安全を守る神)と、出羽三山の板碑などが建てられている。
仏像があることでも分かる通り、この神社は神仏習合である。走湯神社も、かつては寺であったのだが、明治2年の神仏分離令によって神社にされてしまったのである。その時の住職であった修験僧も還俗して神主になり、本尊として安置していた観音像も蟠龍寺に移されてしまったのである。
白山神社の薬師堂もこの憂き目に遭っていて、安置されていた全ての仏像の撤去を命じられている。とんでもない悪法だった訳だが、義経に関係する由緒書や古記録、刀剣類や什器なども処分されたに違いない。
尚、走湯神社系の神社は、岩手県には6社ある。紫波町(走湯神社)、岩泉町(伊豆神社)、江刺区岩谷堂(走湯権現)、遠野市上郷町(伊豆神社)、遠野市小友町(伊豆権現)、平泉町(鏡山伊豆権現)の6社である。
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