鐙越は、義経が乗馬訓練に使った小山で、急勾配の斜面が扇状に広がる特徴を持った山である。義経は日々この山で、馬に乗りながら斜面を下る訓練に明け暮れたと伝えられている。
鐙越の斜面は、40度近い急斜面で、高度な乗馬技術を習得した人間でも、この角度を乗馬したままくだるというのは、常識的には不可能といってよい。これは例えば、人間が25度の傾斜のすべり台に四つん這いになってみれば分かるのであるが、恐怖で震えてしまうくらいの傾斜なのである。ましてや足の長い馬が、絶壁に近い山を下るとなれば、人間の何倍も恐怖を感じるはず。義経はそれを鐙越の訓練で習得したということになる。
この鐙越の訓練があったればこそ、義経26歳の時に挙行した寿永3(1184)年2月の一の谷の戦いで見せた「鵯越(ひよどりこえ)の逆落(さかおとし)」の奇襲作戦で大勝利に導いたわけである。勝利の由縁が、鐙越の訓練にあった訳であり、乗馬の呼吸を会得していたからこそ即応できた作戦だったのである。恐らく義経は、源平合戦の際、配下の兵士に、自分が体得した乗馬の感覚を伝授し、訓練させたのだろう。
また、義経が数々の戦いに全戦全勝したのも、あらゆる想定を考え、しっかりした理論付けの元で、日々訓練していたからに他ならない。鵯越の逆落という作戦は、その場の思いつきで実行したというのは無理があるだろう。歴史学者も、どこか一の谷と同じ地形の所で訓練していたに違いないとする考えでは一致しているのだが、それがどこであったのか、となると謎のままになっていた。
高橋克彦氏の小説『炎立つ』第5巻では、義経は青森・十三湊にある小高い山の斜面で訓練したと書かれているのだが、十三湊にある小高い山といえば靄山(もやいやま、152m)しかない。
しかし、靄山は神聖な山で人馬が
近づいてはいけない山なのである。
義経がその山で訓練したとは到底
思われない。
義経の身になって考えると、訓練の
場所の特定は容易に判断がつくとい
うものである。義経が赤沢に来なけれ
ばならない理由があったことと、武術・
戦術を学ぶ絶好の環境にあったこと、
源平の情勢が情報としてすぐ届く場所
にあったことなどを考えれば、 乗馬の
訓練は赤沢の地しかないと断言でき
るのである。
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