義経神社はその名の通り、義経を神とする神社で、正式名称は判官堂(ほうがんどう)である。大角家が代々、自宅敷地内にある判官堂を祀り、義経の由緒を守り伝えている。同家の屋号も判官堂である。判官堂のお札には弓矢が描かれていて、第二次世界大戦で戦地に出兵する兵士が参拝、このお札を持って戦地に向かっていった。軍神の神様として崇めたのだろう。
この神社が世に知られるようになったのは平成12(2000)年以降で、それ以前は地元の人すら知らず、知っていたのはごく一部の人だけだった。否、赤沢伝承の全てが、誰にも知られずにいたのである。
もし、この義経伝説が、この土地の名をあげる為の宣伝として作られた伝説であるなら、もっと昔から知られていてもいいはずである。だが、何故知られず今日に至ったのか。
それは、大角家が代々守り伝えてきたあることに起因していると考えられる。
それは、文治4年の春(衣川合戦の前年)、義経30歳の時、北に旅立つ前にハルと我が子に一目会おうと赤沢の地を再び訪れた時に始まる伝承譚である。ハルとの再会を果たした義経は、秘められた旅だったがゆえに、村人の目を憚りながら、慌ただしい逢瀬のひと時を過ごしたという。我が子・小左衛門は数え8歳になっていた。初めて対面する我が子を、義経は愛(いと)おしい目で見つめ、北紀行の目的や事情を伝えた上で、数刻を過ごした後、後ろ髪を引かれる思いで北へ向かったという。
探索方に行き先を知られてはならず、ハルにだけは正直に伝えた上で、大角家の家族には「言わば語るな、語らば言うな」と念を押したのだという。それゆえ、大角家では、義経との約束を堅く守り、義経が訪ねてきたことも、北に向かったことも黙秘して、代々守り云い伝えてきたのだという。赤沢の義経伝説が世に広まらなかったのは、こういう背景があったからである。
義経が赤沢を去る際、大角家は、ハルとの縁に感謝して、「判官堂」の屋号を許したという云い伝えになっている。
判官堂の建立は貞観13(871)年と云い伝えられている。とてつもなく古い神社なのであるが、それすらも、代々大角家にしか知られていなかったのである。義経が赤沢に逗留していた時も、この神社はそこにあった訳であるが、当時、この社(やしろ)は何と呼ばれていたものか、大角家でも分からないという。
この判官堂には、大変古い棟札が今も残っている。その棟札には「文永7年5月5日吉日」と記されているのである。西暦1270年にあたるこの年は『吾妻鏡』が書かれ始めた頃である。つまり、義経を神として祀るこの神社が、文永の時代もこの地の村人に崇められ、北紀行伝説を事実としてとらえていたということである。
義経北行伝説は江戸時代初期から語られ始めたという通説がまかり通っているのだが、この棟札の存在で、その通説があっけなく瓦解してしまうことになる。よくぞこのような重要証拠が残っていたものだと驚く他はない。
判官堂には木造の不動明王像が本尊として安置されている。製作年代は不明だが、室町時代時代以降の作ではないかと思われる。義経と軍神を重ね合わせ、不動明王像となったのであろう。
判官堂はかつて、2間四方の覆い堂に納められ、盗難から守られていた。そして、毎年9月17日に秋祭りを、11月3日には例大祭が催されてきたという。ところが、お堂の老朽化と共に参拝者も減り、祭事も昭和25年から行われなくなったという。
それから60年後の平成22(2010)年9月6日、地元
有志の尽力で鞘堂が一新され、鳥居も再建されたので
ある。それを契機に、同年11月3日、すなわち、 例大
祭があったと言われるその日に、祭事と直会(なおらい)
を催すこととなり、地元の人々を大いに喜ばせた。
現在、この判官堂の中には、平成29年2月に上演された演劇『義経の春』の舞台背景に使用された墨絵(赤沢の田園風景)が奉納されている。堂を訪れた際には、その絵も堂からのぞいて見ては如何だろうか。
この判官堂も、周囲の神社と山々に密接なネットワークが構築されており、それぞれ直線で結ぶと、なんと10本の線がこの判官堂一点に集中して交差していることが分かる。この場所が、紫波町でも有数のパワースポットと考えられるのである。判官堂を建立する際、位置の重要性を良く知る者(陰陽師か)が、正確に地理と方位を計算した上で建てられたことを意味している。決して偶然にこの位置に建立されたのではないことを付記しておきたい。
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