義経は、武術の訓練を終えると、湧き水が溜まる大角家の井戸に決まって立ち寄り、喉の渇きをうるおしたと云う。
大角家は赤沢の金山下代(げだい、金山採掘を管理する役職。経営管理する金山本締(もとじめ)の下で山師棟梁と穿子(ほりこ、掘削工のこと)の作業管理、数量管理、人事管理、健康管理を行う総責任者)を担った家と云われているが、それを裏付ける古記録はない。
義経がここに立ち寄るもう一つの理由があった。大角家の一人娘ハル(系図3-①A参照)の存在であった。歳は義経と同い歳であったという。紫波町の作家三島黎子氏の小説『蓮華寺の月』では、ハルから時に握りめしを馳走になったりしながら次第に親しくなり、いつしか恋仲になり、やがて義経の子を身ごもったと書かれている。
義経は、ハルがまだ妊娠中に赤沢を去り、頼朝の陣に向かったと云い伝えられている。
義経が赤沢を去る際、大角家には「天国」銘の短刀(懐刀)と刀剣箱、笹竜胆の家紋入り印籠を渡し、ハルには手鏡と訓練に使った弓と空穂(うつぼ)と弦巻(つるまき)三点を渡した。弓については「折れて使えなくなったので処分してほしい」とハルに頼んだという。しかしハルは、それを処分せず、後生大事に保管したのだという。
懐刀、手鏡、印籠、弓三点は現存し、弓三点以外は大角家に保管されている。以前は槍数本と太刀数振りもあったという。何度か盗難に遭い、行方知れずとなったらしい。
また、弓三点は白山神社別当遠山家が社宝として厳重に管理している。盗難に遭うことなく現在まで残ったのは、弓が折れて使えなくなった状態であったことが幸いしたのかもしれない。この弓三点は、平成29年4月29日、白山神社の例大祭で20年ぶりに一般公開され、翌日の盛岡タイムスにトップ記事で紹介された。
今まで、弓三点は、盗難を避ける為に、それがどこに保管されていたのかも極秘にされていた。それが何故公開したのかというと、平成28年11月に、作家山崎純醒氏が刊行した『義経北紀行伝説』第1巻第5章に、赤沢の義経伝承が詳しく紹介されたことと、翌年2月に、町民劇場で、演劇『義経の春』(脚本澤口たまみ)が上演されたことから機運が盛り上がり、劇に携わった関係者の働き掛けで一般公開が叶ったものである。
弓は長さ7尺2寸5分(約2.2m)である。義経の時代の弓の長さは218センチが一般的な拵(こしらえ)だが、義経の弓はそれより長いのである。逆に、弓幹の幅は一般が8分幅なのに対し、この弓幹は6分幅と狭くなっている。細い弓幹であればしなりが柔らかく、速射も可能になるが、折れやすい欠点もある。
義経北紀行伝説ルートの各地の神社には、義経愛用の武具や調度品が奉納されて現存している所もあるのだが、弓だけは絶対に奉納しなかったという。6分幅の弓は、義経が脆弱者だと思われると考え、名誉に掛けて人目に触れないようにしたのだと考えたい。そうであればこそ、6分幅の弓が現存している事実は、大変貴重な歴史資料と言える訳である。
弓は時代によってその拵えが異なる。時代がたつにつれ、拵えが進化しているのであるが、戦国時代以降の弓は「弓胎(ひご)」という拵えで、弓の完成形と言われている。それ以前の室町時代中期の弓は「四方竹弓(よもだけゆみ)」という拵え。さらに昔の平安時代後期から用いられた弓は「三枚打ち」と言われる拵えの弓で、いつの時代の弓かを判定する際、この拵えで時代が判明するわけである。義経の弓の拵えは、まさに三枚打ちの弓であることから、紛れもなく、義経時代の弓であり、義経がこの赤沢に逗留していた証拠の品とも言えるだろう。
大角家系図によれば、ハルは大角伝衛門娘となっており、義経の実子・小左衛門を生んでいる。系図には文永3(1266)年没とあるから、計算すれば90歳。当時としては非常に珍しい長寿であったことになる。大角家系図は途中で欠落が激しく、何代目になるのか判明しないのだが、現在の直系子孫である大角セツさんとその娘勝子さん、孫和巳さんはいずれも健在である。(系図3―①A参照)
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