山崎純醒先生ブログ 義経北行伝説

山崎先生18:矢島と的場

義経が蓮華寺に6年間修行滞在している間、弓術と乗馬などの武術
訓練や、写経、 薬草処方などを学んでいたことは、 先の解説で述べた
通りであるが、 その事実があったればこそ、矢島と的場の地名が今の残
っているのである。

矢島の名の起こりには三つの説ある。一つは、義経が弓の訓練をした
際、 丘陵地の山頂部に、弓矢の収納庫と庵を建てたからという説と、こ
の山頂部から的場に向かって弓を次々射る訓練をした際、 矢をつまむ
所作「矢摘ま」がなまって「やしま」になったという説。三つ目の説はその
ものズバリ、矢島が源平合戦の「屋島の合戦」の戦場となった断崖絶壁
の「屋島」にそっくりだったから、義経が名付けた。という説である。いずれ
がルーツなのか不明だが、義経がこの矢島に登り、日々弓を射る鍛錬を
重ねた地であったことは間違いであろう。
的場の地名の起こりは、 その名の通り、弓の訓練をした際の的を置い
た場合になぞらえた地名である。


義経は、ここで馬を走らせながら、馬上から弓を射る訓練を重ねていたという。当時、矢を射る際は、馬を止め、狙いを定めてから射っていた。馬を走らせて射るというのはあり得ないという時代だったのである。走って射ったところで当たるはずはなく、弓の無駄遣いになるだけだったから―という考えなのだが、義経は当時の一般常識を無視し、独自の弓の技術を編み出したと云われている。
流鏑馬(やぶさめ)のルーツは義経に始まるとする説もあるが、流鏑馬自体は平安末期の頃からあったのではないか。しかし、兜をかぶったままの流鏑馬は、間違いなく義経が最初であろう。そもそも、兜をかぶって射ようとすれば、兜の吹返(ふきかえし)が邪魔して弓を大きく引くことができない。となれば弓は飛距離も出ないし威力も弱くなる。戦場での弓引きは、馬を止めて射るしかなかったのである。しかし、義経は、強靭な膂力(りょりょく)を身につけることによって、三人張りの弓を容易に引くことができたという。弓の引きを大きくしなくても、充分な飛距離と威力をもった矢を射ることができたのであろう。
的場は山と山に挟まれた平坦
な地にあり、ほぼ均等な距離をお
いて上り勾配の段差が施されてい
る。 これなら、矢を射った時、飛距
離が一目で判定でき、距離感を養
うことができる。この段差が自然に
できていたものか、人工的に造営
されたものかは不明だが、 まさに
的場にかなった地形であることは確かである。
この的場の左手にある丘陵地が矢島である。義経が二十歳になったある日、中尊寺境内で流鏑馬を奉納する射的の競技があり、義経もそこで妙技を披露することになったという。その技は百発百中であったという。当時の武士の度肝を抜いたに違いない。高平真藤著『平泉志』(明治19年刊)には、「秀衡、義経の文武英達の技量に驚嘆…」とある。
矢島と的場は、白山神社から北西方向2.2kmの所で、車で2~3分の距離にある。

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