山崎純醒先生ブログ 義経北行伝説

山崎先生16:蓮華寺の悲惨な歴史

蓮華寺の歴史を紐解けば、文明2(1470)年3月、白山神社別当家第18代遠山中務(なかつかさ)重任(しげとう)の時、近隣の豪族大迫左近太郎と長岡九郎高国との間に争いが起き、中間点である赤沢の地で戦闘になったという。遠山重任が長岡氏に味方したことにより、大迫一族は、遠山家の家督の歳祝いの日に、夜陰に乗じた焼き討ちに合い、白山神社と蓮華寺、華厳寺、そして社家僧坊百余件が、全焼したという。珍宝だけがかろうじて搬出できたと『白山神社由緒記』に記されている。


今は痕跡すら留めていないが、かつて平泉毛越寺の「大泉が池」を凌駕する規模の「紫竹の池」と呼ばれる浄土庭園がそこにあり、この地の支配者が、池で雅な舟を浮かべて遊んだと言い伝えられている。義経もまた、時にはこの池で、舟に乗りながら笛を奏で、和歌を詠み、雅びを楽しんだのではないだろうか。
かの西行法師も蓮華寺を訪れ、「昔見し 花や紫竹に変わらねど うつれる水の 池の朽れぬる」と歌を残している。昔私(西行)は蓮華寺の紫竹の池を訪れたことがあったが、再び訪れた今、花や紫竹は枯れずにあったが、池は朽れてしまっていた、と詠嘆の気持ちを表現している。と同時に、蓮華寺別当家の衰微していく様を、池の水の朽れに重ね合わせ、その悲哀を歌に残したものと思われる。
蓮華寺は、過去に度々火災に遭っている。寛文13(1673)年、白山別当家25代重信の時、落雷で出火し全焼。信徒の寄進で再建したが、明治17(1884)年、白山別当家34代円忠の時には、別当家邸宅が焼けた。文明2年の火災と合わせ、三度大火に見舞われ、棟札、古文書類、珍宝、仏像、古什器等はことごとく焼失してしまったのである。


その後復興を試みるも、かつての勢威を取り戻すことはできず、ついに廃寺になってしまったと『白山神社由緒記』に記されている。 恐らくは、義経の6年間の詳しい事跡を示す古記録もあったに違いない。
この地で産出される金によって、平泉をしのぐ黄金文化が、この蓮華寺にあったのではないか。樋爪館と合わせ、紫波が平泉に次ぐ第二の軍事拠点だったのではないか。平泉と赤沢、藤原氏と樋爪氏、中尊寺と蓮華寺、当時この関係は、切っても切れない強い絆で結ばれていたことは、想像に難くない。

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