『義経夢の会』事務局次長の良子(ながこ)です! 『義経夢の会』お頭の山崎純醒先生の研究レポートよりご紹介いたします‼
前九年合戦で安倍氏(棟梁安倍頼時)と源氏(棟梁源頼義)の全面対決が勃発したのは天喜4(1056)年のことである。
この年、藤原経清の甥・遠山師重(もろしげ、遠山別当家系図参照)は、戦火を逃れる為、経清の母と、出産を控えた経清の妻(有加)を連れて、赤沢の地に落ち延び、師重の伯父であった蓮華寺の住職、円覚良円法師良信に匿われた。前九年合戦勃発から間もなく、清衡はこの赤沢の地で誕生したのである。
その6年後の康平5(1062)年9月17日、藤原経清は、戦いに敗れて平国妙によって捕えられ、源頼義の面前で、首を鈍刀で引き切られるという、残虐な刑に処せられた。 この時、清衡はかぞえ7歳、清衡の母(有加)は23歳前後であった。
経清の母は、赤沢の地で我が子経清の死を知らされたに違いない。経清の母は、経清の霊を弔いながら、ここ赤沢の地で生涯を送り、孫・清衡の行く末を案じつつ、静かに没したと云い伝えられている。
経清が亡くなってから267年後、白山別当家第12代遠山重詮(しげあきら)の頃、経清の母を供養する為に、音高山の麓、白山神社参道脇に板碑が建
立された。
それは、高さ9尺、幅3尺の墓碑で、建てられたのは嘉暦4(1329)年6月23日と刻まれていたという。今は文字が風化して判読はできないが、施主は「道成」と刻まれていたという。道成とは誰か。経清の末裔に連なる人物か、それとも当時の蓮華寺檀家総代の名前だったのか、それを知る古文書は、たびたび起こった火災で焼失し、知る手立ては、今は無い。
板碑の願文には「如秋昔所願 今昔巳是供 仁一切衆生皆令入佛道」(一切衆生に恵みを及ぼし、成仏・得道の願いを果たささまらんや)とあり、「敬白」の二文字で結んでいる。また、本殿のある境内には、鎌倉時代末期に建てられた石碑が複数並んでいる。この石碑に刻まれた文字の中には、現在も解読できない謎の文字もあったという。
山崎純醒先生講演会、開催のご相談
山崎純醒先生の講演会の開催を企画される方は、こちらのページからお申し込み下さい!
↓↓↓↓↓