『義経夢の会』事務局次長の良子(ながこ)です!
さて、『良子』って誰なのでしょうか?? 実は、源義経の奥様の名前なんですよ~。
『義経夢の会』に嫁いだくらいの気持ちで励めとの思いを込めて(?)か、会長山崎純醒先生自ら命名くださいましたペンネームです(^‐^)
どうぞ、『良子御前』の愛称で御贔屓にしてくださいね!!
さて、源義経が正史(『吾妻鏡』)に初めて登場するのは、治承4(1180)年10月22日のこと。
駿河の黄瀬川(今の静岡県駿東郡)のほとりの陣屋で、兄・源頼朝と、生まれて初めて対面する劇的な場面からとなります。
その時、義経は22歳。
源平合戦の様々な戦いで全戦全勝。
鮮烈なデビューを果たし、ついに平家を滅亡に至らしめます。
その後、文治5(1189)年4月30日、平泉の高館で、泰衡の郎従・長崎太郎・次郎兄弟率いる500騎の軍勢に急襲され、自刃して果てるまで、歴史に登場したのはこのわずか9年間のこと。
源義経…なんで日本人はこんなにも義経が大好きなのか?
「判官びいき」という言葉にあるように弱い立場や、哀れな者に客観的な視点の意見をあえて無視して同情してしまう…。
そういう心理は確かにはたらいていますね(笑)
源義経とは一体どんな人物だったのか?
義経は、一体どんな人物だったのか?
従者一行はどのように、義経を守っていたのか?
義経がそもそも平泉に来たいきさつは?
最愛といわれる静御前の他にも侍るあまたの女性の存在とは?
岩手から青森、北海道まで点在する義経の軌跡は何を示唆しているのか?
もしも本当に義経主従一行が、平泉の難を逃れ北の大地を踏んでいたのだとしたら…。
彼らはどのようなルートで逃避行を続けたのか?
誰が手を貸したのか?
義経一行を迎え入れることで一切の言い訳が利かぬまま滅亡の道をたどることとなった奥州藤原氏とは…。
かつて黄金に輝く極楽浄土として栄えた北の王国も、今はほとんど往時を偲ぶ影もなく、「兵どもが夢のあと…」。 高台に登り、広がる大地を見下ろし、瞼を閉じれば、滅びゆく楽土の最後の幻を見ることができるかもしれない…。
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